GOTOUCHI RAUMEN 全国ご当地ラーメン
米沢ラーメン
概要
人口:9.3万/軒数:219軒
山形県自体が、山形、酒田などの多くのラーメン処を含むが、米沢も特徴あるラーメン処である。一番の特徴は麺で、加水の多い細麺を2~3日寝かせて更に手でもむため、更にチリチリ感が増す。スープはすっきりした物だが、この縮れのおかげで絡みはよく、ラーメンとしてのバランスはとれている。麺の量はかなり多いが、加水が多いため腹にはたまりにくい。
麺 | 切り歯 | 加水率(%) | 一玉の分量(g) | 形状 | 断面 |
---|---|---|---|---|---|
20~24 | 40~48 | 170~200 | ちぢれ | 角 | |
スープ | 鶏ガラ、豚骨、煮干しなどを使ったあっさり醤油味。牛脂など、牛を素材にする店もある。 | ||||
具 | ネギ、チャーシュー、メンマなどのオーソドックスな物。なると、海苔などもある。 |
地元の主な店:やまとや、ひらま
首都圏の店 :―
ラー博出店 :―
詳細
大正期からの歴史を持つ細縮れ麺
関東大震災前後からの屋台が発祥
県内に、山形市、新庄、天童などのラーメン処を抱える山形県。米沢も、その山形県内で独自のスタイルを持つラーメン処である。米沢ラーメンの歴史は古い。大正12年の関東大震災前後に、既に中国人によるラーメンの屋台が、3~4軒存在していたと言う。この流れはその後も続き、大正末期には「上海軒」「来々軒」「朝日軒」などが店舗を構えたとされる。
また、大正12~13年に、当時のカフェー「舞鶴」にて、常松恒夫(つねまつみちお)氏によって、米沢初の日本人によるラーメンが発売された。これについては、震災後の不景気の打開と言う意図もあったのではないか、と推測する向きもある。
中国人による屋台から始まった米沢ラーメンだが、昭和初期の恐慌や、満州事変などによる日中関係の悪化等で徐々に姿を消していった。ただ昭和9年頃から、中国人からラーメンの製法を習い、営業を始める日本人が増えて来ていた。「福留軒」を筆頭に、「米喜代」「喜養栄」「太陽軒(現「富よし」)」「フジ食堂」などが、当時を代表する店だったようだ。この後、米沢ではラーメンが大きく普及する。 戦後の高度経済成長を経た昭和40年代、東京で札幌味噌ラーメンが大ブレイクした。その味噌ラーメンを、昭和41年にいち早く米沢で提供したのが、「金沢屋」(金沢喜一氏)と「文明堂」(小山田徳雄氏)である。両店は仙台の「五右エ門ラーメン」にて味噌ラーメンを習い、山形県内では初の味噌ラーメンを提供した。
一見普通のあっさり味だが、そんぴん、まんぎり等の変わり種も
米沢のラーメンもまた、麺に特徴がある。加水率は全国でももっとも多い部類に入る。普通、喜多方や佐野のように、加水の多い麺は太麺になる場合が多い。また、博多、旭川のように、中細~細麺は、どちらかというと水分は控えめだ。米沢の麺は、中細の多加水麺という、他の地域にはあまり見られない作りになっている。手もみで強めの縮れをつけてあり、スープの持ち上げは良い。多加水麺を数日寝かせて歯ごたえを出す。その優しい食感は、比較的さっぱり目のスープをスポイルしない組み合わせになっている。
スープはトリガラ、豚骨、煮干し等を使ったあっさり醤油味がメイン。国内の醤油ラーメンとしてはオーソドックスな部類だ。ただし、中には牛脂、牛ダシなど、名物の米沢牛を積極的に取り入れたラーメンも存在している。
首都圏への進出は、「そんぴんラーメン」という形で行われた。「そんぴん」とは米沢の方言で「ひねくれ者」の事。本来魚介類の無い米沢で、魚介類をたっぷり乗せたラーメンを出してそれを名物にしようと狙った商品だった。しかし地元では何軒かのお店で提供している状態である。また「まんぎりラーメン」は米沢名産の米沢牛を具に採用した物。
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